心理雑感

『粗忽長屋(粗忽長屋)』落語にみる <私>の理解

<私>とは誰か

 先日も,このブログにて「意識」についての本を紹介した『意識とは何か』苧阪直之著)。

最近,私たちが自分だと思っている<私>がどのように意識されるのか,そして,意識されないにもかかわらず<私>が維持されているように感じられるのはなぜか,そんなことを考えていろいろと読み漁っています。

 そして,ちょっとしたものに出会いました。

 そう,本日は落語の話です。

粗忽長屋

 粗忽長屋(そこつながや)とは,古典落語の1つで,寛政年間というから,1800年ごろに作られたお話のようです。

 粗忽長屋は、江戸時代の人々の日常生活や風俗を反映しているだけでなく、人間のうっかりや勘違いによる笑いを楽しむことができる落語の代表的な作品です。
 しかし,ちょっとした深さも併せ持っているのです。これが,落語のオチでもあり,スパイスですね。

 簡単に,あらすじです。

 八五郎は,身元不明の行き倒れが出た現場に出くわします。役人たちは通行人らに死体を見せ,誰なの探していました。死体の顔を見た八五郎は,同じ長屋の熊五郎だと言い,同時に「今朝、体調が悪いと言っていた」と言います。周りの人たちは,行き倒れが出たのは昨晩だから人違いだと指摘しますが,八五郎は聞く耳を持たず,長屋に戻って熊五郎本人を連れてくるのです。

 長屋へ帰ってきた八五郎は,熊五郎に「お前が浅草寺の近くで死んでいた」と言い,熊五郎は自分はこの通り生きていると反論しますが,八五郎はお前は粗忽者だから死んだことに気づいていないなどと言い返し,熊五郎は言いくるめられて自分は死んでしまったと納得する。そして熊五郎は自分の死体を引き取るために,八五郎と共に現場に向かうのです。

 現場で死体を見た熊五郎は,死人の顔を改めて間違いなく俺だと言います。周囲の者たちはそんなわけはないと呆れるのですが,熊五郎も八五郎も納得せず,しまいに熊五郎は自らの死体を担いで帰っていくのです。そして,死体を担いでいる熊五郎は「どうもわからなくなった」とつぶやきます。「抱かれてるのは確かに俺だが、抱いてる俺はいってえ誰だろう?」と。

 永代橋という話にもなっていますね。

 私たちは,何をして<私>という意識を維持しているんでしょうかね。
 実は,科学こそ今のように発展していないものの,人は人について,考えていて,何かしら感じてきたんでしょうね。 

コロナ対策を行っている心理相談室 玉井心理研究室

 玉井心理研究室では,認知行動療法イメージワークを用いて,トラウマから精神疾患,対人関係など広く心理療法を提供しております
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