心理雑感

敬老の日に向けて 親孝行について考えてみる

 明日、9月16日は敬老の日ですね。老人を敬う日、ということですね。

  国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)の2条において、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨として定められています。その1条には、「 自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞって祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける」と国民の祝日の目的が示されています。なるほど。基本に戻ると、いろいろと見えてくるものがあります。

 敬老の日に定められた意図として、長く生き、家族や地域、国を支えてくれた先人に感謝をするということですから、その意図は分かります。「ありがとうございます」とお伝えしたい。

 祝日として制定されるということは、そのことを意識して確認することに意味があるとされていて、尚且つ日々の活動で忙しくしていればそんなことを意識しいて振り返る余裕もないから、そんな時間を持ってほしい、という思いがあるのでしょう。そんな意図で作られた休みの日に、多くの人が老人に感謝をする時間と気持ちの余裕があればいいな、と思います。

  アメリカの心理学者のクリスティーン・ネフは「セルフ・コンパッションとは、自分の愛する人を思いやるように、自分自身を思いやること」ということを提唱しました。そんな気持ちで、人を、そして先行く人、つまり老人を思いやれることは、心の健康に繋がっているのかとも思います。

 心に余裕がないとき、人を思いやることは難しくなります。余裕がないときには、その瞬間は精一杯なのですから、当然です。それでいいんです。思いやりが持てないとき、そんな自分が「余裕がなくても頑張っているんだ」と思えるといいな、と思います。少なくとも、思い返す時には…。「余裕がない自分はダメだ」といって自分を責めず、「思いやりを強要されたくない」と反発したくなるのも致し方ないよね、という形で受け止めてあげたいものです。

 親孝行についても同様でしょう。「あなたを育てるのにこんなに頑張ったんだから、親孝行しなさいよ」と親孝行を要求されたと訴える方の話もよく耳にします。“親に育てられた=親に借りがあるから返さないといけない、でもきっと永遠に借りを返すことはできない”、そんな意識でする親孝行は、思いやりではなくなっていますよね。

 自分に余裕があって、“思いやり”の気持ちでできる分だけ、できれば良いのでしょう。その時には、その思いやりは、自他の心を和らげるものとなっていると思います。

 親子関係、親離れも子離れも、これは難しい。親も「完全ではない人間として、それなりに頑張ったところもあるんだろうな」と距離を置いて見れるとよいのですが、虐待の連鎖などもよく目の当たりにする日々の臨床の中では、それがいかに難しいか実感しています。思いやる余裕どころか、精神的に、更には物理的に距離を置かないと、その存在が近くにあるだけで余裕がなくなる、そんなこともあるのです。お互いに傷つけない距離を置く、それも一つの自分に、そして相手に対する思いやりですよね。

 今日が良い1日となりますように。

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