プラス・遅れてきた女性研究者
今回は、ニナ・ブルという研究者について、そして彼女が提唱した理論について、ごく簡単にですが書いてみたいと思います。
初期の頃に書いたブログで、ニナ・ブルに触れて書いたことがありました。
そのことを指摘され、少し刺激された、という次第です。
ニナ・ブル(Nina Bull, 1880–1968)は、感情と身体の関係、特に「筋肉の動き」や「姿勢」が人間の主観的体験に与える影響について深く探究した先駆的な研究者です。
彼女の名はあまり広く知られていませんが、その理論と実践は、今日のソマティックアプローチなどに大きな影響を与えました。
ブルは、正式な心理学や医学の学位を持たず、50代後半という遅い時期に科学者としてのキャリアをスタートしました。彼女が最初の学術論文を発表したのは1938年、58歳の時でした。その後25年間で査読付き論文を約18本、さらに2冊の著書(Bull, 1951; Bull, 1962) を出版。女性研究者が少なかった当時、しかも心理学や精神医学が「男性の領域」とされていた中で、ブルの業績は特筆に値します。
ニナ・ブルの功績
彼女の最大の貢献は、「態度理論」の明確化です。
1940年代と1950年代、ブルはコロンビア大学内科外科部で精神医学の研究員として、そして後に1950年に強制退職した後はニューヨーク州立精神医学研究所の運動態度研究プロジェクトディレクターとして (Herrick, 1950)、感情の本質に関する理論を構築し、実験的調査を行いました。彼女は、あらゆる行動、つまりあらゆる身体動作には、何らかの姿勢の準備が必要であると指摘しました。
Daniel J. Lewisは、ブルの功績、提唱した態度理論、その実験的検証、そして後世への影響を「Nina Bull: The Work, Life and Legacy of a Somatic Pioneer」にまとめています。
また、ブルの感情の態度理論は、翻訳されていないようですが、『The Attitude Theory of Emotion』(1951)として出版されています。
今回は、少しブルの功績について、整理しておきたいと思います。
態度理論(Theory of Attitudes)
彼女の具体的な貢献は、神経と筋肉のつながり方と「準備的な運動態度」という役割の導入です。態度理論で彼女は、感情は筋肉の姿勢(運動的態度)から生じるという考え方で、感情が「行動の準備」から始まるという、当時の常識とは真逆の発想を提示しました。
まず、潜在的な準備状態、すなわち「素因となる神経パターン」が生まれ、次に行為に先立つ運動態度が形成され、これが(完了行為が遅れれば)感情と行為そのものの両方を引き起こすのです。態度理論はジェームス=ランゲ説と似たところがあり、一般的な考えとは反対に、行動の準備は感情の主観的認識に続くのではなく、先行すると主張しています。
ブルの感情態度理論は、ジェームズ=ランゲ説に近いですが、「運動準備→行動の遅延→感情」という明確なメカニズムを提示した点で独自性があります。
彼女は催眠実験を中心に研究を深めているのですが、そこで見出したことを簡単に述べると(それにより、その功績が軽く感じられるのを恐れるが)、特定の身体の緊張状態と感情につながりがあること、逆に言うと、つながりのない身体の緊張と感情を同時に体験することが難しい、ということでもあります。結果は一貫しており、姿勢と感情が一致しないと、被験者は感情を維持できなかったのです。これは、身体の運動的構えが感情体験を支えていることを強く示唆しました。
例えば、腕や顎を力ませながら、楽しいという感情を感じるのは難しいのです。
ポジティブ感情・ネガティブ感情について
彼女は、態度理論を通して、感情とはどういうものなのかを示しています。
その理論では、「身体が特定の感情にふさわしい筋肉の構え(運動的態度)をとりながら、その行動を完了できない状態」が、感情を主観的に感じる瞬間だというのです。
ブルは、喜びなどの感情の際には、身体的には以下のようになると指摘します。
* 身体は開かれている
* 筋肉はリラックス、または柔軟な緊張
* 動きに余裕があり、重心が上方に向かう傾向
* 呼吸は深く、自由
* エネルギーは外向き(expressive)
そして、ブルはこれを「解放的な構え」と呼び、完了行為(たとえば笑う・動き出すなど)につながりやすい状態だと考えました。
一方、怒りや嫌悪感などの感情の際には、身体的な反応が以下のようになると明らかにしています。
* 身体は縮こまる、または硬直する
* 筋肉が特定部位で強く緊張(たとえば、怒りでは手や顎)
* 動きは制限され、重心は低く、内向きに向かう
* 呼吸は浅くなる
* エネルギーは内向き、または停止状態
特に「抑うつ」に関しては、ブルは筋肉の広範な弛緩や無力化が見られ、「行動への準備がされているが、行動できない状態」が長く続くことによって、感情エネルギーが失われ、閉塞感が生まれると考えました。
改めてですが、ブルの理論の重要なポイントは、感情体験は「運動的態度」が完了行為に結びつかないときに生じる、という仮説です。
すなわち、以下のように言えるのです。
プラスとされる感情では、準備された身体の態度がすぐに完了行為につながる(例:喜び→笑う、達成→ガッツポーズ)がゆえに、感情の滞留が少なく、快の感情体験となる
マイナスとされる感情では、身体が行動の準備をしているにもかかわらず、それが実現されない(例:怒り→抑制、恐怖→逃げられない)がゆえに感情が滞留し、苦痛として意識される
この「行動のブロック」が、ネガティブ感情をネガティブたらしめているという、非常に身体志向的な視点をブルは強調したのです。
かつて、玉井はポジティブ感情・ネガティブ感情について、人が勝手にそのようなラベリングをしているに過ぎないのではないか、と考えましたが、それが身体的に異なる機制によって生じているものであることが明らかに示されているのですね。
プラスの感情は、完了までスムーズに進むが故に、違和感なくそれに気が付かないままに、つまりブレーキが利かなくなりやすい。
一方、ネガティブな感情は完了までスムーズに進まない(怒ったからと言ってそれをすぐに人にぶつけることができない)、つまりブレーキが働くが故に、違和感としてそれに気が付き、感情としてしっかりと認識する、ということですね。
心理療法への展開
彼女は感情の調整において、身体姿勢の重要性を早くから認識しており、臨床や癒しの実践にも関与していました。彼女は広く様々な人たちと交流を持ち、「身体を通した治癒」や行動療法的な視点も持っていました。
身体の「運動態度」を意識的に変化させることで、固定された感情パターンを緩め、新たな自己表現を可能にするという考え方は、今日の「ソマティック・セラピー(身体志向療法)」の先駆と言えるでしょう。
Bull, N. (1951). The Attitude Theory of Emotion.
Bull, N. (1962). The Body and Its Mind.
Lewis, D. J. (2024). Nina Bull: The Work, Life and Legacy of a Somatic Pioneer.
玉井心理研究室が提供する心理支援
玉井心理研究室では,認知行動療法やイメージワークを用いて,トラウマから精神疾患,対人関係など広く心理療法を提供しております。
また,個人のみならず,組織における人事・メンタルヘルスコンサルタントとしてもお手伝いをしております。