話し合いから思ったこと
先日,心理職とは関係のない仲間たちと,感情についての話し合いを行いました。
テキストは『7つの感情』,今回のテーマは第6章の「抑うつ」でした。
玉井が,本を踏まえて,抑うつという感情はエネルギーの枯渇を教えてくれるアラームだよ,ということをお伝えしました。
今日のブログでは,その時の話を一部参考にしながら,「抑うつ」という感情の周辺を探ってみたいと思います。
何がエネルギーなのか
抑うつはエネルギーの枯渇,という説明は理解していただけるとしても,そこで気になるのは,「何がエネルギーなのか」ということです。
それは,人により違うのではないかと思われます。楽しい時間,静かに好きなことをすること,好きな人や心安らげる家族らと一緒に過ごすこと,瞑想する時間など,一定の時間の過ごし方があり,その様な時間を体験することで,何かに触れているのでしょう。
また,謎が広がってしまいました。エネルギーとは,何かいつもと違うことをするということでもありますが,そこで何かに触れる?ということがあるようです。単なる気分転換とは違うの?という問いも出てきます。
自分のこころの器からあふれつつある状態
ある方は,こころの器という形での説明をされました。人は誰もが心の器を持つという前提です。器が大きいとか小さいとか,大きくしないといけないとか,感がる人もいるかもしれません。日本では問題があると,人のもつその器の大きさのせいにして問題はその個人に帰するという傾向があるのでは,という意見もありましたが,一旦それは横に置いておきましょう。
器には,私たちが取り組まなければならない課題が載せられます。絶えず一定の課題が下ろされてきていると考えられます。
そして,その課題が処理されると,器の下に取り付けられた蛇口から流れでていくことで器に隙間が出来ていく,という話しでした。
それはそれで分かりやすいですよね。
器がいっぱいになって,あふれてしまうと余裕がなくなる,だからその器におろす課題の量を調整する必要があるという話しでもあります。これは,働く現場でのラインケア,つまり上司が部下にちゃんと目配りをするということですね。
この説明の場合には,抑うつ状態になるということは,器の隙間,つまり遊びがなくなっている状態が続いているということです。先の説明,「エネルギーがない」とは逆に,「課題が多すぎる」ということですね。
場合によっては,この説明も使えそうです。
再度,何かに触れるということについて
ここで改めて,上の2つの話をつなげておきましょう。
エネルギー不足,つまりエネルギーか何かに触れられていない,触れる時間が取れていないということでしたよね。
器が目一杯にあふれている,これも余裕がなくなり,エネルギーや何かそれに触れる体験,またその時間が取れないということですよね。
やはり,これらは繋がっていると考えてよさそうです。
エネルギーがたまる時間
エネルギーは,ためるのではなく,たまるのだと感じられます。
それ自体を自分で集めることはできないものと考える方が正しいでしょう。これは,一般にはあまり知られていませんが,心に対する大切な理解の応用です。
それ自体を集めるのではなく,それが集まるような体験,時間を持つということなのです。
一人でゆっくりするということを好む人もいるでしょう。
誰か人と一緒にゆっくりしたいという人もいるでしょう。
一人でいるからと言って,孤独ではなくて,人の存在を感じていることもあるでしょう。
それらを順番に体験する人もいるでしょう。
それは,個人差が大きい気がします。
ただ,やはり何か,エネルギーがたまりやすいものというのは,何かある気がします。
エネルギーを減らすこと
エネルギーを極端に減らすことで,抑うつを促進する態度があります。
「7つの感情」の本にも紹介していますが,認知行動療法という考え方や行動を扱って,人の変化を促進するアプローチでも,取り上げられることが多いテーマです。
例えば,「弱みを見せると付け込まれるから,自分から参ったとは言えない」「私はできるはず,できないことはない,できる。やるべきだし」などの考えは,自分が追い詰められていても休めないし,自分を追い詰めてしまう考えですよね。
認知行動療法では,このような様々な考え方の癖なども取り上げられています。一部は,過去のブログでも書いていますし,認知行動療法や考え方の癖などについてさらに詳しく知りたい人は,玉井の著書「マンガでやさしくわかる認知行動療法」も参考にしてください。
極限体験 あそこまでの体験はもうない
話し合いの中まで,親御さんの戦争時の体験の話をされた人がいました。本当に身近な人が沢山なくなる,その様な中過ごした,という体験です。そのような体験があるから,「もう何も怖くない」と親御さんは言っていたとのこと。
本当に底をついたから,もう上がるしかなかった,と話していたとのことでした。
私は,そこで2つの考えが出てきました。
まず思ったのは,底をついたときに,更により深く,何か自分を引き上げてくれるような希望に出会えたのかな,ということです。時代的には,その後の時間での解放感や負けん気で高度経済成長を成し遂げた根性も多くあったでしょうけれども,そこでは,「希望」に出会えている気がします。
一方,希望に会えなかった人は,絶望してそこから上がるのではなく,落ちるだけであった人もいるかもしれないとも思いました。もしかすると,落ちるのではなくその状態が続く,という人もいたのかもしれません。時間の流れの中で,その状態から次第に上がっていった,という人も多かったかもしれません。
その際に,希望なのか,なにかこころの深いところにある生命力のような,それを感じられたかどうか,というのは大きな違いがある気がします。
もしかすると,希望や生命力に出会えていないから,やみくもにお金を稼ぐことだけに猛進し,どこまで言っても虚しさから抜けられずにバブルまで突っ走った,という仮説も成り立つのかもしれません。(この仮説,しっかり検証していません)
生命力
先程,私は「生命力」との出会いと書きました。
自分が生きているのに,自分の生命力に出会うという文章に,困惑した人もいるかもしれません。
ただ,私の考えでは,そして深層心理学の文脈で考えると,生命力は深い無意識の域から自ずから出てくるような,それ自体が「自分のもの」と感じられないようなものなのです。
内なる他者,と言ってもよいでしょう。
例えば,転んで何針か縫うようなケガをしたとします。外科医に塗ってもらうことで,人は少し安心します。ただ,お医者さんがそのけがを治してくれたのではなくて,お医者さんはけがの断面が結合しやすいような環境を整えてくれたのです。そして,私たちの体の細胞が働き,繋がりを取り戻していったのです。そこには,生命力が働いています。
生命力は,私たちが操作的に操れるものではないのです。ただ,武道や瞑想など,それに触れる実践を積み重ねることで,十分に心身に力が満ち溢れている状態を作ることはできるかもしれません。
根本的なエネルギーとは,自らの内なる生命力
話しが広がってしまっていましたが,ここでようやく先にあげていた,心のエネルギーに繋がります。
人にとってのエネルギーとは,様々なものがあります。
表面的な楽しみから,より深い楽しみまで,楽しみも違いがあるようです。
そして,最終的には,先にあげた生命力に繋がっている感覚,これ自体がエネルギーの根本ではないのか,などとも考えました。
思考や感情,それらもその生命力とつながる部分もありますが,気を付けないとそれらは表面的な「自我」に私たちを縛り付けてしまいます。
このように考えてくると,人は自らの心身を介して,より深く自らの内なる生命力との出会いが絶たれたときに,抑うつになると言えるのかもしれませんね。
抑うつとは,生命力との断絶とそれとの再度のつながりの必要性を訴えるアラームなのだと…。
先日のブログでもお伝えしましたが,5月15日の午後,モラロジー道徳教育財団にて玉井が講師を務める「心理学教室 感情を知りラクになる」では,「抑うつ」について一緒に話し合いたいと思っております。
関心がある方は,是非おいでください。(詳細ページ,ここをクリック)
玉井心理研究室が提供する心理支援
玉井心理研究室では,認知行動療法やイメージワークを用いて,トラウマから精神疾患,対人関係など広く心理療法を提供しております。
また,個人のみならず,組織における人事・メンタルヘルスコンサルタントとしてもお手伝いをしております。