べき思考、これは力のいるクセです。~であるべきだと考え、それが実現するように頑張るのですから、妥当なことかもしれませんが、怒りを伴うと時に疲れます。
例えば、私は昔から心理士の倫理についてはかなりうるさく言っています。これは、「べき」なのでしょうか。以前、責任者をしていた相談室で、倫理的に検討しなければならないことが発生した時に、弁護士から「倫理が大切なら、内部での研修はどのように継続しているのですか?」と問われて言葉を失いました。そんなこと、当然個人での意識と取り組みがある、と思っていましたが、法的な争いはそういうことではなく、形式的なことも含めて自分にとって都合の良い理屈をこねることがしばしばです。
時間が経ち、倫理に対する学びと取組みを深めていく中で、倫理に対する「べき思考」とそれに付随する怒りから、決して譲らないけれども柔軟に理想を追求しよう、という穏やかなスタンスができてきつつある気がします。
「べき」は時に必要だと思います。ただ、大文字のBEKI=「べき」は硬く四角い考えなので、その考えは端っこがとがっていて、当たるところにダメージを与えます。だから、やわらかい小文字のbeki=「べき」にできれば良いかと思いまsう。
昔お会いした方で、「人に対して優しく思いやりを持って接しないといけない」という素晴らしい考えをお持ちの方がおられました。ただその方の周りで、挨拶はしない、頼まれたことはしない、頼んだことをしてもらっても感謝もしない、という嫌な感じの人がいて、その人のことを許せなくなってしまい、またそんな自分もどうしてよいのか分からなくなってしまい、BEKI=「べき」から離れられずに、調子を崩してしまうまでになりました。
その後その方は、しばらくの間、学びと練習を重ねていき、自分の価値観は変化させないで大切に保持しながらも、「人に対してその時々の状況や状態に適した形で優しく思いやりを持って接していければよい」という少し柔軟な形に修正していかれました。人それぞれの価値観を大切にして、体調が悪くても無理してまで人によかれとし過ぎることも無く、つまり自分に対しても人に対してと同じように優しく考えられるようになったのです。
自分の大切にする価値観は、「生きる美学」、これははっきりさせて大切にしようと取り組むことが必要です。ただ、杓子定規ではなく、いい加減なのではなく、柔軟にそれを考えられたら良いのかと思います。
一昨日の「白黒思考」とセットで、この考え方は「怒り」に直結することが多いものです。怒りを感じ、受け止め、その妥当なところを認め、他の意見の妥当なところも認め、柔軟に適切に表現する、そんなことも柔らかくする練習です。
こんにちは。
「心のクセ」自覚することが難しいようです。
気が付いたらなんでこんなところに!?って
体の不調で初めて気が付く‥。がっかりしてしまいます。
再びカウンセリング予約…。
認知行動療法、修得したいのですがなかなか難しい。
専門家のこのような記事ってありがたいですね。
お役に立てて幸いです。
できていないところは、終わらないものです。クセは尽きませんし…。
できてきたところを見てあげたいですね。
一歩一歩進めて下さい。
何でもバランスや柔軟性って大切ですね。
そのうえで、私は、企業でコンプライアンスを浸透させる側にいたので、弁護士の考え方が身についていると思います。法治国家だから守ってくれるのも法。それをどう使うかな。という思いもあります。
起業側での師が、コンプライアンスは、黒にしないようにしょうと思っていると守れない。どうやったら白になるだろうといつも考えながらいくことが大切というようなことを言っていて、私はその言葉を聞いたとき、すごく腹落ちしました。先生が教えてくれた理想追求倫理のことと最近つながりました。
固くなったらダメなのでは無くて、固くなっている自分に気がついて、その自分を感じて観察できるようになると、変化が生じやすくなりますね。