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山頭火 俳句を供にした行乞途上の僧

種田山頭火

 これは,山頭火が作った「自由律俳句」である。

 山頭火に惹かれ,幾つかの本を手にした。

 知らない人もおられるだろうから,簡単に山頭火の略歴を示しておこう。

 山頭火は明治15年に,山口県の大地主の家に生まれた長男。父親は女狂い,政治運動にも狂奔し,家はどんどん傾いていった。山頭火が11歳のとき,母親は父親の行いに悩み,自宅の井戸に投身自殺。山頭火はそのことを終生背負っていたようだ。優秀だったようで,早稲田大学に入学したものの,23歳(明治37年)には神経衰弱にて退学し,帰郷。27歳で佐波郡和田村,佐藤家の美人なお嬢様,サキノと結婚。酒には,かなり飲まれ,自分をどろどろに失うまで止められなかった。35歳で俳句雑誌(俳誌)「層雲」の俳句選者の一人になる。同年,種田家破産。父は行方不明,山頭火家族は熊本に行く。そこで古書店「雅楽多」を開くが,実際は殆ど妻が仕切っていた様子。弟の二郎が責任を取らされるように養子先から離縁された。弟は一時期,山頭火に助けを求めてきたようだが,頼りにならない兄から離れ,自殺。兄,山頭火は妻子を熊本に残したまま単身上京。妻サキノの実家は,頼りにならない山頭火と離婚して帰ってくるようにずっと言っていたようで(当然かも),山頭火にも離婚を迫った。山頭火は離婚届に押印してサキノに送り,それを見て「仕方ない」とサキノは離婚したが,後に帰郷した山頭火は,「お前が離婚届を出さなければ,離婚にはならないと思っていた」と相変わらず頼りない言。
 43歳で禅門に入り,その後,一鉢一笠の行乞放浪の旅に出る。俳句仲間を頼っては酒を飲み,何もないときには行乞し,あちらこちらで知人や別れた妻に,後には息子に助けられながら,西日本を中心に歩き続けた。途中,自殺未遂もするが,生きて松山市に一草庵(大山澄太が命名)を構える。59歳(1940年),10月10日に句会,翌早朝コロリ往生。

 山頭火は,江戸時代前期の俳諧師で,「おくのほそ道」を記した芭蕉(松尾芭蕉)や,明治生まれで大正時代に若くして経済界で活躍し,その後若くして全てを捨て無一物として生き,死んでいった放哉(ほうさい,尾崎放哉,1885-1926)ともよく並列して語られる俳人である。
 あたりまえの生活ができず,家族も養えず,ストレスがあるとすぐ酒に逃げ,全てを捨ててさすらい続け,ただただ句,日記,手紙を書きながら,俳句を杖として生きることができた人である

 しみじみ生かされてゐることがほころび縫ふとき

 そんな山頭火について読んだり,多くの人が書いている文章を読んでいる中で,いろんなことを考えたが,少し記録として書いておきたい。

支え

 「山頭火読本」に含まれる小林恭二のインタビューで,家庭内で精神的に放浪していた普通の子どもが起こした事件について触れられていたが,山頭火はまさに放浪し,逃げ続ける自分を見つめ,その自分から逃げずに生きられたのは,「俳句」という支えがあったからだと思う。

 世間で当たり前とされることができない自分,酒におぼれる自分,そしてそれを反省し,何とかしようとしてもすぐに失敗する。その情けなさを見つめ,開き直らずに俳句として書き続けた。

心の本質と自我

 山頭火は,自分を見て句にしているものも多い。
 その句を詠む山頭火は,心の奥深く,無意識の更に深いところ,かつて私が論文にて(心の)本質と呼んだところから湧き出る言葉を句としてあらわしたように思われる。

 句の中で語られる自分は,心の本質から観察される自我とでも言えようか。

 芭蕉が,その本質から観察したのはより外界の自然であったが,山頭火はとことん自我,またはその近くにある物を対象として取り上げている。

本物とされる芸術とは

 人が無心に何かに向かうとき,自我を離れ心の本質に自らをおけるようになることがあると思われる。

 芸術は,まさにそこに身を置いて生み出されたものこそが,本物として人に影響を与えるのであろう。

 心が癒されるときにも,その心の本質との出会いにより進むことも多かろう。
 イメージは,人との交流を通して深められることがあるという指摘がある。そして,芸術は人がその本質に出会うためのガイドとして働くのであろうし,心理士も同様にそのガイドを務めるべく,日々研鑽しているのである。

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