感情

感情は知覚 構成主義的情動理論 「情動はこうしてつくられる」より

情動はこうしてつくられる
 リサ・フェルドマン・バレット(Lisa Feldman Barett Ph.D.)

この本は、本当に深く考えないといけなさそうです。2017年の本ですから、少し前になり今はさらに研究は進んでいるでしょうけれども、情動がどのように作られるのか分かりやすく説明されています。日本では、2018年に高橋洋氏が翻訳しています。
 少しざっくりとなるかもしれないですし、私が関心を持ったメモのようなモノでもありますが、要約して残しておきたいと思います。

古典的理論vs構成主義的情動理論

 情動の発生に関する古典的理論では、怒りや幸福などの情動カテゴリーがそれぞれ独自の身体的な指標を持つことを前提としています。脳には、その感情に関係する特定の部位がある、というのもその一つです。つまり、笑うとかしかめっ面をするとか、表情は感情を示すという顔動作記述システムを提唱したポール・エクマンの研究もそれに従っています。でも、怒っても笑う人もいれば、机をたたく人、能面になる人、眉を顰める人など様々ですよね。
 ところがバレットが提唱している構成主義的情動理論では、特定の感情を示す指標は身体にも脳にもなく、情動とはその都度の内因性脳活動の結果作られると言われます。内因性脳活動とは、ある意味で脳が絶え間なく続けているシミュレーションであり、夢や想像、空想などの源泉でもあります。誤解を恐れずに極論すると、情動も一つの知覚、認識の在り方なのだと言えそうです。
 言いかえると、脳は絶えず「予測」をしているのです。そして、その予測と物理的現実として得られた外部刺激(視覚情報や嗅覚情報など)によって修正し、その結果として人の中で作り上げられた知覚(意識と言ってもよいでしょう)として、情動が生まれるという理論です。
 ざっくり言ってしまうと、予測と感覚入力の組み合わせで、様々な心的現象が作られているということですね。
 そしてそのことは、私たちの中に情動は本来、生得的に存在するものではなく、沢山の経験で学習していくものだ、ということでもあります。

物理的現実と社会的現実

 古典的理論では、情動は脳の特定の部分が活動するなどの物理的な現実ではないかということが考えられてきました。確かに、それを裏付けられるような研究も多くあるのですが、実はそれら研究には穴があったとバレットは指摘しています。
 そして、情動とは社会的現実であり、社会的に共有された知識「集合的志向性」と「言語」によって作られたものだと言います。先の知識とは、ある意味で私たちが持つ様々な「概念」とも言えます。例えば、「椅子」と言えば多くの人にとって物は違うものの、座る何かしらの家具がイメージされるでしょう。それを示す言葉を持つことと、その人が生まれ育った文化の中で共有されている概念が学習されていくと言います。例えば、「怒り」という感情も、その言葉がどのような状態を意味するのかという社会的に共有される知識と自分の体験を繋ぎ合わせることで、「怒り」という感情に辿り着くのだと言うのです。これは、同じ言葉でも文化が違うと異なったものを指し示す可能性があります。この感情に対する知識は、情動概念となります。情動概念は、その他の様々な概念と同じようなものですが、意味を作り出す働きを持つのです。情動は、出来事に対する意味付けとも言えるかもしれません。

 このような理論を提唱するにあたり、バレットは、少し飛躍する考えにも聞こえるかもしれないとも言っています。しかし、この理論はインパクトがあります。

感情(情動)の種類

 古典的理論では、感情の種類についての議論があったりします。一方、構成主義的情動理論(長いので、以下「本理論」とします)ではある体験を特定の認識をするだけで情動が生まれているのであり、それは無限だと言います。本理論では、特定の情動体験に対して名前がつくこともあれば、名前がつかないこともあるのです。ただ、情動概念は、その体験を名付けるのに寄与しているのですね。
 実際に脳のレベルでも、特定の情動が特定の脳の部位を活性化するということはなく、ある体験に即して脳のあちらこちらから沢山の予測が寄せられ、それを認識する中で情動が生まれるというのです。
 エスキモーは雪の種類をたくさん区別すると聞いたことがありますが、雪を知らない人は、単に「雪」と一種類かも知れません。つまり、それと同様に、特定の状況を説明する言葉を持っているかどうか、その予測を促すような体験を積み重ねているのか、ということにより情動はより細かく把握できるものになるというのです。

 情動の細かい理解の程度を「感情粒度」とバレットは呼びます。感情粒度が高い方が良いという訳ではないでしょうが、玉井も感情知能ということについて新刊「私、あってますよね?」で書いていますが、感情粒度が高い方が人に対して共感力が高いと考えられますね。
 作家や心理職の人間は、この感情粒度が高いことが求められる職業かもしれませんね。特に、表現する能力、つまり言語は人間が獲得したものであり、それをうまく使いこなせるかどうか、これは大切なポイントですね。

情動の働き

 情動の働きは、自分が置かれている状況における適切な態度を決めていきます。先に、情動概念が意味を作り出すと述べましたが、呼吸を速めたり、汗をかいたりしたときに、興奮?怖れ?それとも単なる疲れ?など、過去の経験に基づいた説明、つまり意味を作り上げるのです。そして、ひとたび情動概念を用いて自分の状態が説明されることで、つまり特定の感情と認識されることで、引き続く行動が決められていくのです。
 これは、情動は物理的・身体的状況を意味づけ、行動を決めていくのに役立つということを意味します。
 そして、その働きは身体予算を調整するという大切な働きを持つのです。身体予算とは、体のエネルギーがどのように使われるのか、その調整を行っていくプロセスに関わります。怒ったときに向かっていくか、距離を置くか、なかったかのように振舞うか、それはその時々に選ばれるのです。

 本理論は、古典的理論が対象としてきた現象に留まらず、情動経験、情動概念、情動の影響としての身体変化など、様々な「変化」に対する説明を提供します。
 固定された情動、つまり「このような体験はこの情動だ」というものはなく、それは絶えず「変化」の中の一切片であり続けることだというのです。

外と内

 古典的理論では、外界の出来事は「あちら」で生じ、それを受けて人は体内の「こちら」で対応すると考えられてきました。一方、本理論では脳と世界の境界における行き来の中で、境界は存在せず、結びついて情動が生じていくのだと言います。これは、境界線という考えを覆してしまいます。絶えず双方向に影響し合い続け、変化し続けているというのです。
 (ここも考えることが必要ですね…)

 赤ちゃんは、情動概念を学習していくのですが、それはその文化が個人の脳の配線を決めていくということでもあります。赤ちゃんは本当に自由に何にでも適応しうる脳を持っていますが、育つ環境の中でその脳の細胞はガシガシ整理されていきます。怒りを強く向けられるという特異な環境で育つ場合には、脳の配線はそれに沿って進んでしまいます。それは、その後に生きる環境によってはなかなか不便なことに繋がる可能性もあります。その結果、ある程度成長して、脳の配線が決まった後に、再学習して配線をし直していく、言い方を変えると異なった選択肢を獲得していかなければならないことも生じるのです。
 これは、ある意味で心理療法が行っていることでもありますね。
 バレットは、自己の概念システムを変更できるのは本人しかなく、その再学習は大変でも本人の取り組みにかかっている、ということを示しているとも述べます。
 バレット自身も臨床心理に携わったこともあり、その取り組みの大変さに共感的ですが…。

責任について

 古典的人間観では、自己責任について「自己のコントロールの及ばない内的な力がある」として、それに支配される人間という見方をしている。怒りに任せて行動してしまっても、そのような制御できない怒りがあるのだ、ということを言っているのです。本理論は、それに対しても異を唱えています。それは、情動を特別視しすぎており、人は情動を作り出しているという側面を軽視しているという指摘でもあります。更にそれは、現代の世界における法体制に対する問題を指摘する声へと繋がります。日本の場合には、事件が過失であったのか、意図的であったのかによって罪の重さが変わってしまいます。それ自体が不適切だというのです。
 事件を起こした犯罪者が、適切な判断ができる状況ではなかった、というのはよく使われる言い訳ですからね。
 本理論では、衝動的に行動してしまったという場面でも、その体験・出来事が何を意味するのかは個人が判断し、それによって行動が選択されているというのです。とは言え、耐え難いと感じられる状態について、それを「単なる一つの体験」とは言いにくいですね。それ故に、様々な体験を積み重ね、情動粒度を高めていくことが大切なのです。
 その様な学習する場を持てなかった人にとっては、大変に不幸ですが、再学習に進むしかないのです。極端な場合、精神病状態に陥って今まで経験したようなことがない体験に出会った場合も、その経験を振り返り、理解し、学習を進めていくのですね。
 これは、なかなか簡単ではないですけどね。

心の病気について

 バレットは、心の病と考えられている主要なものは、「身体予算のバランスの慢性的な乱れと、抑制のきかない炎症に起因する」(334頁)、と述べています。
 実際に、抑うつと不安は正確に分けられないことが多いとも言います。
 不安障害を抱える脳と抑うつを抱える脳は異なった状態にあると想像されています。抑うつでは、予測が重視され予測エラーが軽視される。つまり過去に囚われてしまいます。不安障害では外界に起因する予測エラーが過剰に受け入れられ、予測が失敗に終わりすぎ、予測に信頼ができなくなるのでどうなるか「わからなくなる」ことで生じると言います。
 様々なしっかんについても、病名をつけるようなカテゴリー化をやめて、基盤要因に加えて内受容、身体予算、情動概念などの視点を加えることで、うつや不安などの消耗性疾患の治療が進展するのではないかと示しています。

情動は学習である

 バレットは、情動に特化した神経回路はないと言います。情動は進化の産物であっても、祖先から生物的に受け継がれたというよりも、文化的に受け継がれているということは、何となく分かってきていますでしょうか。情動は教わらなくても知覚できるが、それは学習されることで情動概念となり、社会的現実を築くものとなるのです。社会的現実は脳の配線を変える。そして情動は社会的現実による構築物であり、人の脳が他者の脳と協調することで形成されるとも言う。
 つまり、脳の配線により、様々な心が創りあげられていくのです。

 本理論によると心は、感情的現実主義、概念、社会的現実からなると言われます。つまり、脳の正常な構造や機能に基づき、必然的で普遍的なものだという。感情的現実主義とは、自分が信じているものを実際に経験するという現象であり、幽霊屋敷が怖いと思っている人は、怖い体験をしていると思い込むということでもある。これは事実というよりも、出来事を事実として解釈しているという側面もありますね。これから完全に自由になれる人はいません。ただ、これは独善的で柔軟性のないものとなる可能性もあります。つまり、「自分は正しい」と信じているときには、その状況に陥っているとも言え、それに気が付いて歯止めをかけることが必要であるとも指摘されています。自分が思い込んでいないか、と好奇心を持って自分と関わり続けること、そのような姿勢を推奨されています。
 概念は、文化の中で学習が自然に促され、生きていく上で必要でもあるが、実際にはないものを見ようとすることもあるから注意が必要だと言われます。また、実在するものを見えなくすることもあるという。それは、そうですよね。幽霊があると思うか、幽霊が見えるのか、幽霊はないと思うのか、人それぞれです。
 社会的現実は、人と人の間をつなぐ大切なものでもありますが、特定の文化の中で共有できている仮想なものだという視点を忘れずにいたほうが良いとも指摘されています。つまり、疑いを持ち続けることが大切、ということでもあります。なかなか大変なことですが、検討する価値がある点です。

 昔からの本質主義は、分かりやすい思考、つまり確実性を強める人の欲求を満たす形で構築されています。一方、本理論は懐疑を勧めています。悩ましいが、後者の方に分があるようです。ただ、現在の世界を検討し直すのに、少し時間が必要そうですし、それに慣れるのも人によってはかなり大変でしょう。

 更にバレットは、予測、内受容、分類、ネットワークなどの自らの研究で使ってきた概念についても、客観的事実というよりも脳の生理学的活動を記述するために発明された概念だと言い切る。まさに、懐疑的な姿勢を自分自身にも向けています。プロフェッショナルです。
 人は、脳の配線に責任は持てない部分もあります。育った環境、文化の影響は強くあります。日本人であれば、英語のRとLの発音を聞き取る、使い分けるのが難しいというのもその一つです。それは言い換えると、人は自分の運命を操る主体でありながらも環境によって制限を受けている、ということでもあります。ただ、その状況を理解して、どのような脳の配線を出来るように学ぶのか、その選択肢を広げることが大切だとも述べられています。

 情動は知覚の1つ、ともいうのである。そこでは、理性と感情といった区分を用いていません。特定の状態を知覚する、それをどのように概念と繋げ、意味付け、行動を促すのかということでもあります。

 本書を振り返るにあたり、私、玉井も、臨床において感情や衝動をターゲットとしてきたと言うこともあり、考えさせられることが多くあります。まだ、整理していかないといけないことが多くあります。感情と理性の違いを明確に語ってきた態度、知覚・意識と認識の違い、認知行動療法における感情の扱い(私の著書『7つの感情』も、一つの情動概念を提示する、という姿勢であると考えられるでしょう)、人が求める欲求との関係、その他いろいろと考えさせられています。
 無意識についての検討、人の幸せとは何かと言う検討などと、玉井が関心を持って取り組んできた感情についての学びから、随分と広がりを感じています。
 また、それらについて機会があれば書いていきたいと思います。

 今回は、自分のメモとしての部分も多く、長くなりました。最後までお付き合いいただきました方には、感謝です。
 また、関心を持たれた方は、直接に本を手に取られることをお勧めします。

玉井心理研究室が提供する心理支援

 玉井心理研究室では,認知行動療法イメージワークを用いて,トラウマから精神疾患,対人関係など広く心理療法を提供しております
 また,個人のみならず,組織における人事・メンタルヘルスコンサルタントとしてもお手伝いをしております。

 コロナ後に拡がったオンラインによる相談ですが,今後も継続する予定です。

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