執筆が進みます 『人の成長・人の発達』
前のブログでもお伝えしていますが、実はこの夏から上述の「7つの感情 知るだけでラクになる」の出版元であるモラロジー道徳教育財団の出版部から、続編を出さないかという提案を頂き、具体的に執筆を進めています。
今月には基本的には書き終えて、今年中には印刷に回したいね、というスケジュールで取り組みは進んでいます。
人の発達というと、エリク・エリクソンという心理学者が「心理社会的発達理論」を提唱しています。とても有名な理論ですから、検索すると山ほど出てきます(だから、どこにもリンクは貼りません)。
『7つの感情』と合わせて、人間を理解するのに役立つ本にして、自己理解を深めたい、自分とうまく付き合いたいけど難しい、人をどのように理解すればよいのだろうか、などと様々に考えたり悩んでいる人たちに、お役に立てればと思っています。
出版は来年、2025年2月の予定です。
そこに向けて、進めていますので、出版の際にはぜひお手に取っていただければと思います。
無意識の古層について
無意識についての検討を重ねて様々な文献や本を読んでいる中で、対称性人類学に出会いました。
何万年も前の人たちの心の動かし方、ものの考え方として、人も自然界の動物も、どちらが上でもなく下でもなく、お互いに助け合って生きているという姿勢です。
狩猟して熊を捕まえたとしても、人が熊を捕まえたのではなく、熊が人につかまりに来てくれたという考え方です。
そして、熊が人になったり、人が熊になったりもする世界がある、ということが信じられていたのです。
その様な世界観は、世界中の神話の中に沢山あるのです。
その様な姿勢に共感し、思考と学びを深めており、今回のほんの「おわりに」でも少し書かせていただきましたが、編集者によって全面カットの提案。あまりのショックにしばしば呆然。
気を取り直し、他の部分に少しコンパクトに入れられないか、文章を作り直しています。
文の前後と合わない、少し難しい、ということが理由のようで、それはわかるのだけど…ということで、本の宣伝も兼ねて(宣伝になるのか、なると信じて)、その部分を少し以下に貼っておきます。
■ 対称性人類学に留まらず、対称性心理学への発展(執筆中初校の「おわりに」から抜粋)
対称性人類学とは、あまり耳にすることがない学問分野かもしれませんね。少し、この本(これは、執筆中の本のことです)に書いてきた内容から離れるように感じる部分もあるかと思いますが、人のあり方ということで重なるところがあると考えていますので、書かせていただきますね。
この分野は、私が心理学の中で人の中にあると仮定されている無意識とは何を指し示しているのか、人間理解を探求する中で出会ったものです。日本では、人類学者の中沢新一がその領域での発信を多くしています。
中沢は、なかなか面白い経歴の持ち主で、20代でネパールにてチベット仏教の修行を行い、その後は人類の思考全域を視野に入れた新しい知のあり方を提唱しています。対称性人類学という視点で中沢は世界の神話の中に残されている共通点、そして先住民族たちの行動様式から見られる自然への畏敬、宗教的修養の中に見られる世界観などをたどっています。それをうまくまとめていると思われる東洋思想研究者の井筒俊彦の文章を引用し、その世界を紹介してみたいと思います。
…私も、改めて中沢氏の『精神の考古学』を手に取り、昔に読んだカルロス・カスタネダのインディアンの本を思い出しました。あの本、怪しかったけど本当に好きな本の1つでした。中沢氏もそのことに触れているから、やはり私の興味関心が向くところはその領域か、と思ったり…。
アイヌに対する関心も、深まりました。この夏の映画、「シサム」もよかったですよね。
すべてのものが無「自性」で、それら相互の間には「自性」的差異がないのに、しかもそれらが個々別々であるということは、すべてのものが全体的関連においてのみ存在しているということ。つまり、存在は相互関連生そのものなのです。根源的に無「自性」である一切の事物の存在は、相互関連的でしかあり得ない。関連あるいは関係といっても、たんにAとBとの関係というような個別間の関係のことではありません。すべてがすべてと関連し合う、そういう全体的関連性の網が先ずあって、その関係的全体構造のなかで、はじめてAはAであり、BはBであり、AとBは個的に関係しあうということが起るのです。(井筒俊彦「自自無碍・理理無碍」中央公論社より)
全ては無に帰す、つまり時間や空間的制約はない、分かりやすく言うと自他の間、生と死の間には大きな溝があるように感じられる。そして、その違いを内に抱えながらも同時にすべて対等な関係として繋がりがあるというのです。それは人と人の関係に留まらず、人と動物など生きとし生けるものすべての間に関係が対等な関係があるのだと言っているのです。
その思想の中では、「贈与」という行為は重要な要素を持ち、かつ分かりやすいように思います。私たちは、物を得るときにお金を払います。これは交換原理です。一方、家族や親しい人の間では、交換ではなく「あげる」、つまり贈与をしますよね。その贈与も、何の見返りも求めない純粋な姿勢に至るのが、人が本来持っていたものではないか、と対称性人類学では指摘しているのです。人は社会を形成していくに従い、純粋贈与から次第に見返りを求める贈与、そして交換という方法を生み出してきたと言えるのです。
このような考えを、心理学に持ち込んでみると、この本でも(今、執筆中の本のことですよ)触れてきた発達的視点とも重なるところがあるのではないかと思います。母親が赤ちゃんの面倒を見るとき、何の見返りも求めずにお世話をする、愛情を注ぐ、そして子どもも全面的に信頼をする、そのような関係は、まさに純粋贈与の世界でもあるかと思います。心理療法が深く人の心に影響を与える場面も、同様のことが生じているのかもしれません。母親が子どもに「私のおかげであなたは大きくなった」というような姿勢になってくるとき、それは純粋贈与ではなくなっていることは、読者の皆さんは既に感じられることと思います。
そしてこの考え方では、純粋贈与が成立するような関係、または心の姿勢を持てることが人の幸福感に繋がるということが指摘されているのです。現代社会であれこれ利害や関係性など考えながら行動してきた私たちは、赤ちゃんの頃のように、純粋贈与のような心の構えも行動も保持することが難しくなっています。自分の欲求や感情のみならず、世の中こういうものであろう、という型にはまった考えからもそう簡単に自由にはなれません。それでも、やはり相手の立場に立って考える、相手の気持ちを慮って行動することは、現代でも大切な価値観だと思います。それは、元々は純粋な思いやりから発生しているものであり、仕事や様々な関係の中では利害や見返りを一切求めないということが難しいのは当然としても、できる範囲でそこに近づける関係を作っていこうとしているとも言えます。そして本当に身近で親密な関係の中で、無条件にそのような態度を持てる相手を持てることは本当に嬉しいことだと思います。
相手に何かしら「期待」してしまう傾向から、完全に自由になるのはなかなか難しいものです。6章に登場したFさんは、ペットとの関係を大切にする人たちについて述べていました。ペットに対しては何も期待しないでいられる。つまり相手に期待せずに、ただ相手を思うだけでよい、という純粋な感覚に近づけるということが、人をペットに向かわせるのかもしれませんね。
先ほど紹介したサンチャゴの話ではありませんが、年齢を重ねて人生の終わりが見えてきて、自分の欲求に囚われる要素が減る中で、改めてそのような純粋な心の姿勢を見出していくこともできるのではないか、それによりエリクソンが老年期に獲得される知恵として示した「英知」に至ることでもあるのかと考えないではいられないのです。
そして、そのような領域を学際的に探求していく心理学領域を、対称性心理学といってもよいのではないかと考えているのです。
さて、以上の部分は如何になるのか、ごみ箱に入れられることを想定して、ここにアップしてしまいました。でも、何らかの形で少し反映させたいですね。
私の、執筆のモチベーションにも繋がっていたところだから…。
玉井心理研究室が提供する心理支援
玉井心理研究室では,認知行動療法やイメージワークを用いて,トラウマから精神疾患,対人関係など広く心理療法を提供しております。
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