旅行記

小笠原諸島 戦跡巡りの思い出

小笠原 父島へ

父島ウェザーステーションからの日没

 令和6年1月,仕事で小笠原諸島に行きました。
 出港が強風で一日遅れ,船で24時間,父島2泊という予定よりタイトなスケジュールとなりました。

 今回は,その隙間で小笠原の父島の戦跡巡りを一人でしたのですが,そのご報告です。既に,記憶が薄らぎつつあり,これ以上先延ばしにすると,完全に書けなくなってしまいますね。

 まず,皆さんは硫黄島のことは聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。
 ハリウッド映画にもなっていますし,日本兵玉砕となった島です。
 恥ずかしながら,私も今回,小笠原行が決まり,いろいろと調べたりして知ったことも多いのですが,硫黄島も小笠原諸島で,父島の南にあります。硫黄島は,現在も民間人は入れず,自衛隊だけが管理のために住んでいます。

 そして,父島も当然のように第二次世界大戦の戦火を強く残しています。
 実際に,あちらこちらに戦跡がリアルに残っている,と言ってもよいでしょう。

戦跡を巡ってみることにした

 戦跡巡りツアーなどもあるのですが,私は,自分で調べていくことにしました。お金がなかった,ということは言い訳ですが…(苦笑)

 まず,あるブログを発見して,それが本当に役立ちました。
 仕事で父島に単身赴任をしている方のようです。
 小笠原諸島は,キャンプなどは禁止ですし,住む家が基本的にかなり限定されており,自然保護もしっかりされているので,行く前に宿の手配をしっかりしないといけません。実際に,私も最初に予定していた日程が決まったところでは,日程も迫っていて宿が取れず,リスケしていただいたぐらいです。移住するのも,簡単ではなさそうですね。

 さて,本題である戦跡ツアーを振り返ってみたいと思います。

 まず,朝食の際に,宿の親父さんに「一人戦跡ツアーに行くんだ」と言ったら,大賛成されて,あちらこちらにあるぞ,すぐそこのトンネルのところにも跡があるし,と言われました。
 私の計画では,
国立天文台VERA小笠原観測局 過去に天文学を学んでいた経歴を持つ玉井としては,見ておきたいと思いました。
夜明山 この山の中に,地下壕があるとブログに書いてありました
③島の西側,コペペ海岸の方も行ってみよう コペペ砲台では,砲台もまだ残されているとのこと。
④扇浦の奥の方のトンネル 昔に作られたのがよくわかるらしい
境浦 これは結構有名なところ。 濱江丸(ひんこうまる)と呼ばれる沈没船のみならず,米軍機の残骸もしっかり残っているとのこと。

ざっとそんな感じです。

後は,ちょこちょこと観光がてら見て回ろう,という予定です。
移動のために,原チャリを借りました。久しぶりでしたので,借りるときに,「最近載っていない人は警察から貸さないでって言われている」と言われたのですが,「ちゃんとバイク免許も持っていて,ずっとバイクも載ってきていたから大丈夫」と言って何とか貸してもらえました。

 天気予報は,晴れと雨(だったか)。気温も思いの外下がりそうなので,ウインドブレーカーも着込んで,合羽も持って出発です。

咸臨丸

 宿は大村海岸からすぐのところ。出発して,父島の唯一とも言えるような街を通り過ぎます。島の東側,山の方に向かうと,「咸臨丸墓地」がある。一瞬通り過ぎたのですが,気になって戻り,バイクを止めて道から少し分け入っていきます。咸臨丸は江戸時代に外国に作ってもらった船ですよね。確か,勝海舟らがアメリカに行く時に乗っていったものではなかったろうか。

 少しずつバイクは山を登っていきます。風が冷たい,そして雨が降りそう。いや,降ってきた,どうする,このままいくか,いや,がまんせずにすぐに合羽を着よう(こころのつぶやき)と木が出張っていた下にバイクを止め,合羽を着こむ。ズボンもはくか,面倒だな,でもはいておこう(再びこころの声),ということで厳重装備。
 バイクを走らせると,雨が強くなってきた。良かった,完璧だ。雨もこわくない。でも,久しぶりだから滑らないようにゆっくり走る。

 長崎展望台に少し立ち寄る。

国立天文台VERA

 夜明道路(という名の道路で,夜明山に向かっています)を走り,最初の目的地であった国立天文台VERA到着。ひたすらに大きい。立派。ここもその一つなのだが,日本列島の4ヶ所に配置さてい電波望遠鏡を組み合わせて観測することで,理論的に直径2300kmの超大型電波望遠鏡と同じ能力を持つように設計されたものです。
 着いたとき,そこの人たちが机を運び出していて,何をしているのか聞いたら,「10時からちょっとしたイベントがあります。ま,高校の文化祭みたいなもんですよ」とのこと。参加したいと思ったのですが,1時間以上待つことはできないので,あきらめて先に進みます。

夜明山

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 夜明道路を進み,右に山と森が広がりつつ,道路の上りがひと段落下あたり,少し開けていて右にちょっとした駐車場,トイレもあります。右の山には,山に入る登山道というか,道が始まっているのが見えます。
 そこでバイクを駐車し,合羽を脱いで山に入ります。最初の100メートルほどはちゃんとした山道が続きます。次第に,人が踏みしめた山道へと形を変えていきます。目を左右に巡らしながら歩いていると,山に入って50メートルもない当たりだったでしょうか,右に人が歩いた道があり,そちらにも進んでみます。
 ありました。斜面に黒い穴が開いています。地下壕の入り口でしょう。
 入っていきしばらく進むだけで,真っ暗です。というか,とても広いです。こんなに広いの?というぐらいです。
 その壕を出て,元の道に戻り先に進みます。左側に明らかに人が歩いた道があります。しばらく其方の道も進みます。上ったり下ったり。しかし,5分弱ほども進むと,はっきり言って一人で山に入り,携帯の電波も繋がらず,迷って出られなくなることが不安になり,元の道に戻りました。

 そして,最初のメインの山道(このタイミングでは,この踏みしめた山道は私にとって安心できる国道のようなものでした)に戻り,先に進みます。すると,変電所のようなフェンスに囲まれた施設。鍵がかかっています。当然ですね。フェンス越しに右に進み,山を登っていきます。人が歩いた跡が明らかにあります。そこを進み,またフェンスを離れて獣道のようなうっすらと踏みしめられたところを進むと,ありました。
 日本兵が残したビンや食器などが散らかっています。多分,戦跡ツアーの人らが,分かりやすくまとめておいたと思われます。そして,さらにどんどん進みます。かなり進むと,やはりまた,帰ってこれるのか怖くなってきます。そして,記憶に刻んだ印を辿り,元のところに近づいたところで,ちょっと横にずれてしまいました。
 しかしそこで,再び地下壕の入り口が複数あります。
 地下壕の入り口の前には,大きな穴も掘られています。

 いろいろなことが頭を巡ります。
 「これだけの地下壕を作り上げるのに,どれだけの労力が費やされたのだろう」
 「この山,森の中を当時の日本兵の人たちは,どのような思いで過ごしていたのだろう」
 「地下壕の入り口の前が深く掘り下げられているのは,お城の堀のようなものだろうか。そのような状況を想定して掘られたのだとしたら,米兵は島に上陸し,日本兵がいるすぐ近くまで来ており,そこで何とか守ろうとする状況だと思われる。その状況は,かなり命の危機が迫る過酷な戦況になっているに違いない」
 などなど…

 身体は元気です。でも,気持ちは本当に複雑です。

 無事に元の道に戻り,フェンスを反対周りにも辿り,更にその地域を探索しました。

 そして,バイクに戻ります。
 駐車場わきに設置されているトイレは,有機分解トイレのようで,なかなか秀逸でした。

コペペ海岸

 再び合羽をかぶってバイクを走らせます。
 南に進み,父島東側から西側へ。小港海岸に行こうかとも思いますが,それは思いとどまり,農業センターの中をしばらく走り回って見たあと,コペペ海岸を目指します。
 どこに戦跡があるのだろうと思いつつも進みますが,突き当りの海岸の駐車場へ。
 とてもゆったりとした内湾が広がります。

 海岸わきの草むらで,読書をする人もいます。
 波も穏やかで,本当にきれいなところです。
 それでも,この波の音を約80年前の人は,どのような思いで聴いたのだろうか。心が癒されるような音ではなく,敵兵が来るかもしれないという恐怖の音ではなかっただろうか。
 コペペ砲台を探し,海岸を歩き山に向かって進みます。どうやら,この道は小港海岸に行く道のようです。
 やはり,途中で海岸を上から望むところに,壕の入り口を見つけます。そこで,敵を見張り,少しでも妨げようとしたのでしょう。先に進む道は,道はしっかり整備はされているものの殆ど山登りのようです。山頂まで進みますが,小港海岸へは進まず戻ります。
 コペペ砲台はどこだ?実際の砲台も残っているところのようだから,必ず見たいのだけれども…
 コペペ海岸の駐車場に戻り,スマホで少し調べると,もしかすると少し戻ったところから道があるのではないかと想像される記載があります。
 バイクで100メートル強でしょうか,少し戻ると,山に入る入口があります。これだと思い,バイクを置く場所を見つけ,再び山に入ります。

 夜明山と比べて,かなりゆったりとしたひらけた空間,踏みしめられた道です。明らかに岬の先に向かって進むので,確信をもって進みます。そして,右手にありました。
 そこは,地下壕というよりも,岬を通るトンネルのような空間です。その先は,西側の海に向かっています。
 同様のトンネルが3つ,ありました。
 一番奥,つまり一番岬の先端側のトンネルの先,砲台が残っています。角度を測った印もしっかりと残っています。
 砲台から出てみると,下は崖で海が広がります。怖い…

 ここでも,沢山の兵隊さんたちが日本を守ろうとしてくれていたんだ。

 砲台まで辿り着いた安堵とともに,様々な気持ちが巡ります。

 バイクを島の東側沿いに北に向かい,扇浦海岸近く。この辺りは父島の町,大村地区の向い岸でもあり,ちょっとした住宅もあるようです。その奥のトンネルも探索します。

境浦

 そして最後の目的地,境浦に進みます。
疲れも増してきており,何があるのだったかとぼーっと見ていると,湾に黒い沈んだ跡が見えます。事前に得た情報では,米軍機の残骸も近くあるということだったので,バイクを駐車場に止め,海岸に降りていきます。急な道を降りるとすぐに,開けた海岸です。
 小笠原の海岸,とことん綺麗です。そうでした。ここの湾には濱江丸(ひんこうまる)と呼ばれる沈没船あるのです。この船は,1944年に空襲で沈み,漂流して今のところに辿り着いたものです。
 時間と共に,朽ちてきているのでしょう。思いの外,海上に出ている部分が写真などで見たものよりも小さく感じました。潮のタイミングかもしれませんが。
 沈没船の辺りから,シュノーケリングをしながら戻ってくる集団もいます。沈没船が漁礁のようになり,沢山の魚たちもいるのでしょう。
 そして,その辺りや,駐車場の周辺をいろいろと探しますが,米軍機の残骸は見つけられませんでした。でも,一人でこれだけ戦跡を歩き回ったことで,良しとしたい気分でした。

 雨も,強くなってきており,再び合羽をしっかりと着こみ,バイクで大村地区に戻り,昼食です。
 小笠原は,太平洋の海洋諸島の食文化が広がっており,亀を食べるのです。もちろん,何事も体験するしかないので,食べさせていただきました。
 もつ煮のような味です。おいしいです。ただ,料理屋のご主人が言うには,その店はかなり亀の灰汁を取っており,亀の臭みが減っているとのこと。ふつうは,八丈島でのクサヤのように匂いも味もくせが強いとのこと。それも食べてみたいですね。

小笠原諸島戦没者追悼之碑

 しばらくの休養と,栄養補給で元気を取り戻し,最後に「小笠原諸島戦没者追悼之碑」に向かいます。
 しばし黙祷。そして周りは気にせず,鐘を叩いて大きな音が響かせます。

 重い気持ちへの囚われから自由になりながら,少し落ち着いて戦争を考え,日本を守った人たちに想いを馳せ,感謝と今を感じます。

 生きていること,日本が独立国として残されたことも,本当に感謝なのですよね。

 今回は,小笠原での一人戦跡巡りのメモでした。最後までお読みいただきありがとうございます。

 小笠原でのことは,往復の船のことや,その他クジラや街のことなど,いろいろありますが,それらはまた機会があれば書いてみたいと思います。

玉井心理研究室が提供する心理支援

 玉井心理研究室では,認知行動療法イメージワークを用いて,トラウマから精神疾患,対人関係など広く心理療法を提供しております
 また,個人のみならず,組織における人事・メンタルヘルスコンサルタントとしてもお手伝いをしております。

 コロナ後に拡がったオンラインによる相談ですが,今後も継続する予定です。