学習性無力感
2019年3月の名古屋地裁岡崎支部の性的暴行事件に対する一審判決は、本当にはらわたが煮えくり返るものでした。
その後、フラワーデモなども各地に広がったので、知っている人もいるでしょう。(その運動は、あとで知りました)
父親が10代の娘に対して、繰り返し性的暴行を加えていたという罪が争われたものの、裁判所は無罪判決を言い渡したのです。
「娘の同意がなく中学2年生の頃から性的虐待を続けた」と認定したものの「娘は著しく抵抗できない状態だったとは認められない」として無罪を言い渡した。
そのニュースを見た時には、目を疑いました。
学習性無力感とは、逃げられない状況に留められることで、逃げる意欲を失い、回避行動や援助希求行動を探索することできなくなり、実際に逃げられる環境になってもその状況を認められなくなってしまうものである。
更に、その状況で生き物としての恐怖や危機感に耐えることが難しいが故に、解離してしまう、簡単に言うと「意識を飛ばしてそこにいても心はいなくなる」状態になってしまうのです。
2審が確定
本年3月に出た2審の名古屋高等裁判所の判決は、「娘は性的虐待を受け続けたうえ父親から学費や生活費の返済を迫られるなど、要求を拒否できない心理状態だった。性欲のはけ口にした卑劣な犯行で被害者が受けた苦痛は極めて重大で深刻だ」というものであり、1審を取り消し懲役10年を言い渡しました。
その後、この加害者は最高裁まで上告し、先日の11月4日に2審が確定しました。裁判官5人全員一致の結論。
当然だ!!
裁判・法律
ただ、私もこの件では自らの内に感情的な暴走を感じていたが、言葉にすることは大切なステップを与えてくれる。改めていろいろと調べてみた。
弁護士のブログなどは、大変に勉強になった。細かくは私が説明するより、一つのブログを紹介しておきます。
北口雅章法律事務所のブログ
常々感じることだが、裁判は何をどのように訴えるか、法律をいかに都合よく引き寄せるか、その力によって一般的な常識とは異なった結果となる。
裁判所は、対話ができなくなった人たちの戦いの場だから、当然なことなのでしょう。
裁判所の中で扱われるものはさておき、裁判所も法律も、そして我々一人一人も、完璧な存在ではないので、自らを見つめ、流されず、丁寧に少しずつ修正していくように、対話を重ねていくことが必要なのであろう。
実際、第一審の裁判長は、その後あまりにも大きなパッシングの影響も大きかったと思われるが、その後の別の事件の判決では、正反対な判決を出している。
市民の勝利!と安易に喜んではいけない、どんなことにもプラスとマイナスがある。
心が休まる場を見出し、そこに寛げますように
何が正しいと、運動をすることも有益だと思う。
私は心理士なので、私のしたいことは人が自らの内に、心が休まる場を持てるようになるお手伝いです。
そのために、具体的に取り組みを続け、さらにその取り組みがより効果を持つように学び研究をしていきたいと思う。
被害にあった方々の、静かな回復を祈りたい。