新葉隠
哲学者の須原一秀(1940-2006)という方がいます。「自死という生き方」という本の著者ですね。
この方は,哲学のテーマとして「死の問題」を取り上げ,宗教にも伝統文化にも頼らずに「死」を晴朗に健全に受け入れるための「心とからだの体制」はどのようにして整えられるのか,そのような心身体制を整えるための実感・体感と直結した知見をどのように蓄積できるか,ということを考え,実践した人です。
このところ,「死」についての本の山に挑戦していて,その中で目を引いたところがあったので,共有させていただきたいと思ったので書いています。
能動的積極的受容の五段階説
須原氏は,死を受け止めていく人たちを励まし,共に生きる中で「死の受容の5段階説」を提唱したキューブラー・ロスの意見を消極的受動的5段階説としています。
そして,自らの姿勢を能動的積極的受容だと述べています。
死に対して,能動的かつ積極的なのですから,死を待つ,という姿勢とは異なっているのですね。
そして,須原氏が整理した能動的積極的受容のステップは,簡単にまとめると以下のようになっています。
➀人生を生きた楽しみを体で納得している
②死について,自然死・事故死・老化・病気・についての経験と知識,日ごろからの死についてしっかり考えていること,それらの結果として,自分の死,身近な人の死,他人の死の違いを実感かつ体感的に区別し,理解できる
③自分が死ぬということに対する主体性を確立する
④自然死派と人工死派の違い,それぞれを尊重しつつ,自分のスタンスをしっかり探る
➄死を待つのではなくて,行くぞ,という心構えと行動
これら,本当にしっかりとステップを踏んで身に着けていくのは,しっかり生きる,ということに繋がりますね。
私,玉井は長く「葉隠」を読んできているので,須原氏の言っていることも腑に落ちるところが多かったです。
彼自身の理論を理解しないままに,彼の生き方と死に方に引っ張られてしまう人がいるのでは,と心配にもなってしまいました。
能動的に死ぬためには,能動的に生きていないとできませんね。
私の本棚にある本の中で,個人的に影響を受けたことがある『チベットの生と死の書』というのがありますが,技術的な部分は全く異なるのですが,思想的な部分はその本と重なるなぁと思います。
死は人の人生を強制終了するのではない,という姿勢でもあります。
選択
「生かされている」なんて言う言葉を耳にすることはあります。
それは,この世に生を受けたきっかけは受動的なものですから,そのことを言っていると考えればよいのでしょう。
ただ,生まれて育ってきた後,少なくとも成人にもなれば,「生きている」のです。
生かされている,という感謝の気持ちを持つ,という能動的な姿勢は一つの選択肢ですが,生かされているから自分が選択する部分がない,と感じてるのは,少し違和感があります。
私たちは,どのように物事をなし,生活するのか,選ぶことができます。
もちろん,一定の条件という制約は誰にもあります。
その中で,自分の選択を能動的にするのです。
自然の流れに身を任す,ということも,しっかりと考えた上での選択肢としてはありですよね。
かつては,私はこの選択肢の理解がうまくなかったのですが,今はよくわかります。
選択を意識するのは,生き方の練習でもありますね。
須原氏は,ただこの本を通して,自身の生き方を問うたのではなく,多くの医療の中で看取られる死の不合理さをしめし,社会として『死』をどのように考えていくか,その多様な死の在り方をタブーとして語らないのではなく,積極的に明るく語ることを目指しているのですね。
とても大切なことです。
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