わからないもの
人は、「わからない」ものを恐れる傾向にあります。
わからないまま、マイナスに感じるものは、耐え難く感じやすいのです。
時に、「あの人の考えていることがわからない」と感じた時に、相手に対して様々な考えをめぐらし、混乱して相手に対して距離を置きたくなり、場合によっては攻撃的になったり被害的になったりすることもあるでしょう。
ただ、考えてもわからないものはわからなくてもよいのです。
人の心、宇宙の果て、新型コロナ後の未来、未来、その他いろいろと、わからないことは沢山あります。実際には、確率的に考えて、このような可能性もある…というわかり方もできるものもあります。
そしてなんでわからないのかについても、様々な理由があるでしょう。未だ解明されていないこともあれば、確定できないこともあれば、確定したと思っても変化していくものも多いでしょう。
例えば、新型コロナの専門家などは、何が分かっていて何が分かっていないのか、そしてそれらはわかりうるのか、わかりえないのか、確率は…といったことを理解しているのでしょう。
研究によって理性を鍛える結果、この「わからない」ことに対しても過剰に不安にならずに済むのです。
大きな分からないこと
先日、心理の仕事から離れた仲間たちと話している中で、「どのように死ぬのが良いかな」といったことを身近な人たちや自分の希望として、自由に話し合っていました。結構年配の人もいたけど…。“死”はわからないことなのですよね。
これは本当に様々でした。
ただ、そこでの話しの中で、「私たちは死ぬ能力をなくしてきているのではないかな」という言葉が記憶に残りました。
そろそろ死ぬのかな…、この数日の内かな…、食べられなくなってきて、飲み物も入らなくなってきて、自然に弱っていって、静かに死を迎える…。
そんな自然死がいいなぁ、という率直な思いでもあるのでしょう。
それでも、認知症になったり、病気で病院にてチューブに繋がれまくってしまって自分で意思を表明する自由がなくなっていたりと、いろんな状況もありそうだねぇ、難しいねぇ。
医学が発展しても、死をなくすわけではないし、むやみに延命しても結局中途半端になることも多いからねぇ、自分でわかっていきたいね、といったところまででした。
“死”は、昔から皇帝たちが不老不死を求めたり、克服しようとしたものの一つです。どうなるかわからないのです。そして、死を迎えると、自分が自分ではなくなるという恐れも伴うのでしょうか。
入水自殺した評論家の西部邁も、自分の意志で死をコントロールしたかったのか、自らの死生観に基づいた選択をしたといいます。海外で、安楽死を認める国もあります。これは、安易には答えは出せませんし、自殺を促すようなことにつながることは避けないといけません。
多くの自殺は、選択肢が見えなくなった結果として行われるものですから…。
死を過剰に怖れるのも不自然ですし、軽く考えすぎるのもおかしなことです。
私も、色々と勉強したり、様々な宗教における死生観などは学びましたが、実際には“死”がどのようなものかは体験したことはありませんから、今日はこの辺までにしておきましょう。人によっても、様々な考えや感じ方があるでしょうから。
死を見つめるとき、「どのように生きるのか」を考え「今を生きる」ことにつながる、という話もよく耳にしますね。
よい時間を積み重ねたいものです。