研究とは?
玉井心理研究室の代表である玉井は、臨床心理学という学問の末端ですけど、研究を続けております。
そのために必要なこと、していることは、
➀問題意識を持ち、関心があるテーマをいくつかプールしておく
②テーマに関する論文や著書など、定期的に目を通し、思索する
③考えたことを身近で試したり、話せる人と話して意見や批判をもらう(同様の研究者というときもあれば、全く専門外の人であることも多い)
④②と③の繰り返しだが、更に情報を集め、臨床の場で試してよいのか確認する
➄臨床の場で実践する
⑥学会発表で専門家に批評してもらう
⑦論文化して役に立ちそうなのであれば、論文執筆を目指す
⑧専門家向けのガイドラインや執筆を行う
⑨一般向けの情報発信を行う
⑩機会があれば、後続の研究者に教え伝える
などですかね。
➀はいろんなことに好奇心だけはあるし、③の人と話す場面でもいろんな刺激をもらいます。時々、刺激を投げ込んでくれるような人もいますね。
②では、面白い論文や本に出合えると、わくわくしますね。
③は、玉井心理研究室では中で専門家同士の議論ができないので、改めて大学院の中にそのような刺激の場を求めました。
玉井が所属してカウンセリングセンター長を務めている東京メンタルヘルスでも、同僚の臨床家たちとの話で色々と刺激になることもありますね。
⑥の学会発表は、最近はあまり積極的にしていませんね。⑦の論文を書くことに関心が偏重していますかね。論文化は本当に多くの作業が必要になりますが、思考の整理になりますね。専門家たちの沢山の批判にもめげない心も必要になるし。
⑨は、ささやかながらこのブログも時にその様なことを目指して書いていることがあります。一般向けの雑誌への寄稿もその一環でしょうか。
⑩は、カウンセラー養成の場で話すこともあれば、当研究室でも講座などの企画を行いたいですね。以前から、認知鼓動療法講座やマインドフルネス講座など、あちらこちらでやってきたことを、提供する機会を自ら作ればよいのかな、と思っています。
日本学術会議って?
なんでこんなこと書いたかって、最近、よくニュースで日本学術会議の話題を目にするからです。
細かい議論は、日本学術会議の中でも多く行われ、専門家が省庁が進める様々な施策にヒントを提供しているのかもしれません。ま、それは国のお金をもらっているのだから、当然でしょうし、その力のある皆さんでしょうから。
そして、色々な力関係が働いて、施策として選択されていくのでしょう。
どうしてもピンとこなかったのは、学問の自由が損なわれるっていう論調もあるようだけど、上のようなことを考えていて、学問の自由は損なわれることなんてないよな、ということ。
私ですら、日々勉強しているのですから。
学問は、率直な批判的な検討の中で成熟するものです。
喧々諤々の議論って、面白いですよね。
批判は楽しくないことも多いけれども、批判を単に批判し返すだけで、検討することができなくなったら自ら学者としては終わりでしょうね。批判をちゃんと受け入れ、そしてその批判にどのように対応するか、その構築過程が学問を進めるのでしょうから。
ただ、今の日本学術会議の論調は、批判的検討を好む人が多いから、ただ何に対しても噛みついてしまうというカミツキガメのような習性が止められないだけなのか、それともその習性に乗じている他の人たちにのせられているだけなのか、研究は時に社会に大きな影響をもたらしてしまうので、その倫理も重要なのですけどね。
もちろん、どこかに所属するとなると、その所属によって制限はあります。
その様に考えてみると、日本学術会議の発信は、その制限を増やすことに熱心になっており、逆に学問の自由を縛っているようにも思えます。
自縄自縛に陥っていませんか?
日本学術会議は、研究機関というよりも研究者の意見を取りまとめる機関のようですから、スポンサーを持たないという方針を掲げ、各学会から少しずつ拠出金を出してもらい、自腹で運営したほうがよいかもしれませんね。
ちょっと面白い話を思い出しました。
学問の世界で、重鎮の先生の話はうのみにしてはまずいことがある、何故なら、偉いから誰も批判ができずに、その説が現実と適合していなくてもまかり通っていることがあるから。
裸の大様の物語は、示唆に富んでいるんですね。
追記
研究には、大変にお金がかかるものもありますね。
役職と経済、これも大切な能力なのでしょう。