認知行動療法では、ものの捉え方は人の気分や行動に影響を与える、という説明をしています。実際には、捉え方が先行して結果として感情・気分が生じるのだ、というのは研究レベルでは微妙なことがあります。
例えばうつ病では表情を見たときネガティブな感情が喚起されやすく、感情認識にもネガティブなバイアスがかかる、といった報告もあります。 特に、表情を通したコミュニケーションの研究では、表情の変化を見たときに感情が呼びおこされるとともに、表情を知覚→認識→運動模倣といったさまざまな認知処理が遂行されることも報告されています。 この結果を簡単にいうと、捉え方に気分が影響していることを指し示しているのです。
正確には、研究領域では背景として存在する長期にわたる気分と、時々に生じる強い情動は、別物と考えられているのです。ただ、少し大雑把かもしれませんが、捉え方も気分・情動も相互に影響を及ぼし合っているのは事実、ということでしょう。
情動の要因理論は様々あり、今回はそれらについては触れません。今回触れたいのは、体験している感情を自分の捉え方を正当化する理由とする、という考え方のクセについてです。
新しい仕事を頼まれた時、その段取りが見えずに「不安」になるのは自然なことです。ただ、「きっと私はその仕事をうまくできないと思う。不安だから…」
ミスをしてしまって恥ずかしい気分になったとき、「こんなこともできない自分はやっぱりだめだな」と自己否定にまで陥ってしまう、これも困ったものです。
感情が生まれるのは、その状況では自然なものであったとしても、その感情をうまく受け止められないとき、その感情に圧倒されてしまうとき、その感情を正当化するかのように、自分や物事に対して、極端な捉え方をしてしまいがちになります。そして、その捉え方は「こう感じているんだから、どうしようもない。そしてだからこそそれは正しいはずだ」となって、取りつく島がなくなってしまいます。
感じていること自体は、正しい間違っているというものではなく、そのままの事実を認めれば良いことです。そのままにしておければよいのですが、それから何らかの理由付け、理屈をつけていくことで問題がこじれていくのです。そうは言っても、ただ観察している、ということにも力がいりますけどね。
感じたことも観察する。感じたことがどのように自分に影響を及ぼしているのか観察してみる。そして、それらを観察して呑み込まれずに寄り添っていくと、変化や気づきが生まれていくのです。