イメージと言葉、その生まれるところに近づく
イメージについていろいろと読み進めている時に、『臨床心理査定技法2』(誠信書房)も手に取った。
様々な心理検査についての話は横において、イメージについて大山泰宏先生が書いている2章について、共感する部分があった。
「語り手の言葉が立ち上がる瞬間に肉薄できるためには、検査者の側でも、自からの言葉が立ち上がる瞬間にまで至ることができていなければならない。自分自身の言葉が立ち上がる瞬間に至らなくて、どうして他者の言葉が生成する瞬間に接近することができようか。自らの言語とイメージの通路を開き、両者の風通しを良くしてこそ、はじめて他者の言語が立ち上がる瞬間が見えてくるのである」(上掲書,p61)
全然別のところ、剣道からの解説
私は剣道を楽しむのですが、剣道では、打っていって当たるのではない、相手に勝ったから打つのだ、ということが言われます。
相手を打つときには、既に攻め合いで勝ちを収めた後だ、ということでもあり、相手が物理的に動き出すところを打つ、更には相手の心が動き出すところを打つ、つまり相手が動いていないようでその動きの起こるところを見極められるように稽古を積むのだ、というのです。
これ、似ていますよね。
人と人との出会いも、人と言葉の出会い、人とイメージの出会いもまさにそのようなことを示しているのですね。
人は、それを感じていることもありますが、それを認識することは難しいようです。ときどき、「なんかうまく行っちゃった、そんな気がしたんだよね」というのは、まさにその機をとらえていたのでしょう。
啐啄の機
これは「 碧巌録」の言葉ですね。これも同じことを示す言葉でもあります。
この意味は、卵の中のヒナ鳥が殻を破ってまさに生まれ出ようとする時、卵の殻を内側から雛がつつくことを「啐」といい、それに合わせて親鳥が外から殻をつつくのを「啄」ということなのです。殻を隔てている雛鳥と親鳥が、内側と外側からつつくタイミングが一致することで、殻が破れて中から雛鳥が生まれ出てくるというのです。
このように、両者の動作が一致することにより目的が達せられる「好機」のことを「啐啄の機」と言うのです。
知るということは、大山先生は自らの言葉の湧き上がるところ、ということを述べておられましたが、それは一人でできることと、他者とのやり取りの中で成し遂げられることに、質の違い又は内容の違いが生じるように思われます。
そこについては、またの機会としましょう。