増産され、浪費される言葉
電車に乗っていて、スマホをいじっている人がすごい手の動きで文章を作っているようでした。その手の動きをぼんやりと見ながら、感心しながら、頭の中ではいろいろな連想が沸き上がっていました。
私も何冊か本を出させていただきましたし、論文を書いたり原稿を依頼されたりと文章を作ることがよくあります。途中、何度も書き直し、文をかみ砕きながら、自分の文章の作り方のクセに反省を重ねることもしばしばです。
同じ状況でいても、言葉にする人の表現によって、随分と違いますよね。だからこそ、文章を作ったり、言葉を生み出すことがすごい事にもなるんですよね。
新しい感覚への入り口としての言葉
詩人の言葉、繰り返し感じて味わい尽くしたい、そんな気持ちにさせられることもあります。飽きないんです。心に響く言葉は、飽きるとかいう次元ではなく、違う時期に読み直すとまた違った感覚を届けてくれます。
言葉は、単なる言葉ではなく、人を何かにつなぐ入り口にもなるのでしょう。しばしば、大いなる何か、感じるものに。
昔から、言葉は作られ続けてきました。本当に無限なまでに。そして、殆どの言葉は消え、いくつかの言葉は残っています。
聖書やお経など、人が読み続け、身近に感じようと努力しながら大切にしてきたものです。昔は、言葉を書き残すことも難しかったでしょうから、言葉自体を本当に大切にしていたんだと思います。
言葉との新しい付き合い方 言葉の魔法
今は、紙がなくてもパソコンやスマホ上で、いくらでも言葉を量産し、世界中のどこかのサーバーを介して飛び回ったり、どこかにしまい込まれます。気を付けないと、益々雑になってしまいます。このブログも同じです。
私など、若い時から汚い言葉を使ってきて、言葉を雑に扱ってきたものですから、こんなことを言うことも恥ずかしいのですが、少しずつ言葉を大切にすること、大切にするという付き合い方について、考えられ、少しですが感じられるようになってきました。
言葉を魔法の杖とすべく、言葉と関わり、楽しく真剣に遊び続けたいと思いました。
ふとした連想から、随分と広がりました。これも、風船のようなものですね。