『生物の世界』今西錦司著
今西進化論という言葉を聞いたことがありますか。
進化論と言えば、ダーウィンですよね。『種の起源』を書いた人です。
日本と西洋の発想の違いを考えている中で、『生物の世界』を書き、日本版の進化論の視点を提示した京都大学名誉教授の今西錦司先生の本を手に取りました。
読んでみて、本来の目的もありますが、とても分かりやすい本でしたので、まずはすごく雑にまとめてみます。
1.相似と相異
生物と無生物の違い、生物として似ているところが沢山ある、つまり他と全く切り離された特異な存在というものはそう簡単に見当たらない、類縁があり、それらがあるが故に世界は構造を持つ、とも述べている。
2.構造について
それでは、違いをどのように見分けるのかというと、その構造によるのである。形である。羽根がある鳥とか、羽根はあるけれども形が異なる蝶とか、足が6本の昆虫とか、単なる外の形だけではなく中の形もある。
ただ、世界を形成するものとしてわかりやすい形から、その解釈(区別の仕方)、そして生き物の構造、更にはその機能へと話は広がっていく。
構造と機能は完全には分離できず、そしてそれは身体と生命を分離できないのと同じようなものだと併記される。
3.環境について
そして、そのような構造や機能は、例えば食料を認識して摂取するのだが、食料を認識しないといけない。つまり生き物は環境を離れた存在としては想定できない。
すると、様々な種はそれぞれに住む環境が少しずつ重なりつつ生きており、かつ多くの種は住む環境(認識できる環境)を拡大しながら進化してきた、と言える。その時、それぞれの種は生き物として独立したものでもありながら、生物も世界の構成要素の一つとしか言えないという点からするとそうとも言い切れないところを含めた存在である、ということが主張されるのである。
「生命の物質的基礎をつかんだ上での身体即生命的な生命観を求めようとする立場においては、固体内に束縛された生命を解放して、これを世界に拡がるものと見なし、それゆえにこの世界がすなわちわれわれの世界たり得るという結論に持って行くより、今の私にはよりよい考えが浮かばぬのである」(P130)
このように、生き物の進化において、世界を認識するという要素を含めずには、ほんとうの進化論的な解釈は成立しないのではないか、と述べている。
ここで、ダーウィンの進化論とは全く異なった、環境との相互作用を加味した進化を示しているのである。
4.社会について
生き物は独立した個体のみならず、その個体が求める食料がある環境、更には種の保存のための他の類縁の個体との関係を必要とすることになる。
同じような食べ物を求める、そこに家族という小さい社会単位も生まれる。
近年の世界では、多様性(ダイバーシティ)といった言葉をよく耳にするようになったが、この今西先生の発想から考えを進めると、多様性を認めていくと、先々は社会が分裂せざるを得ない、ということにもなるのではなかろうか。
個性の違いを認めることの大切さもあるが、異なったものがそれぞれに住み分けており、同じ社会では共通点を見出してそれを大切にするということもとても重要な視点であろう。
5.歴史について
生物は進化してきた。過去には恐竜が、そして哺乳類へと進んでいる。
「身体はその意味で生物にとって主体的なものと考えれば、それはどこまでも主体的なものであろうけれども、環境的物質的に考えるならば、それはどこまでも環境の延長であり、環境の代弁者であるにすぎない。ところで自然淘汰説というものは生物の環境に対する働きかけというものを全然認めないで、環境の生物に対する働きかけだけを取り上げているのではなかろうか。」(P320)
「生物が生きることを選ぶのは必然的なものかも知れないが、その必然性の背後には選択の自由ということがどこかしらにおぼろげながらも感ぜられはしないであろうか。」(P321)
そこでは、生物を単に本能や欲求に突き動かされているだけの存在ではなく、世界を認識する存在、美しいものを美しいと感じる存在、少し誇張して書いたが、そのような意思を持ちうる存在として、世界における新陳代謝をえているのではなかろうか。
このように、今西先生は生物と環境の不即不離な関係の上に、自然淘汰という進化論とは異なった視点を提示するのである。西洋風に定められた知的な過程から離れ、独自に科学的考察の前提となる世界観、認識論、生命観を展開しているのである。
かなり読み飛ばしたものを、簡単なメモのつもりで書かせてもらいました。その内容は繰り返しになるがわかりやすい論理で展開されており、それ自体が本当に深い学びになった。
初版は戦前1941年の本である。面白かった。