心理雑感

『霊操』研究とは

『霊操』イグナチオ・デ・ロヨラ著

 先日、体操についての本を読み、その紹介をしましたが、今回は別の本です。
 キリスト教の本ですが、人がイメージとどのように親しみ、それを自らに役立てていくのかを考えるために、紐解きました。
 著者は、1522年頃に生まれ、騎士として生きようとしつつ瀕死の怪我から生還し、その際に与えられた本の影響で、キリスト教に目覚め、その世界を深めたようですね。

 何を考え、感じ、祈るか、著者が一生をかけて書いたその手引書ですね。
 私が読んだ版は、1995年の岩波文庫のものです。訳と解説は門脇佳吉氏ですが、ご本人は禅宗の影響も強く受けておられ、そのつながりも書いてくれているので感覚的な理解が持ちやすかったです。

 読む本ではなく、実践する本だと書いていましたが、読んでしまいました…。

 氏は解題において、『「霊操」の最終目的は、イグナチオが恵まれた神秘体験に霊操者を導くことである。それは霊操者が自分に対する特別な神の御意志を探し、見出すことなのである。神の御意志は人間の理性では見出し得ない。神は無限で広大無辺な神秘だから、有限な人間には知ることはできない。』と書いている。
 体操が体に対して行うものであるように、霊操は、魂に対して行うものとのこと。
 これは、キリスト教の中での取り組みだが、禅宗との共通点も多くあると氏も書いており、宗教に限らず、が真剣に生きることに向き合うとき、自分のことを本当に掘り下げていくとき、自我を離れていく過程で永遠を見出そうとする、そこへの探求でもあるのだろう。

 また、霊操に取り組む人に要請される心構えの第一が「大勇猛心」であり、第二が「惜しみなき心」であるという。薄っぺらい優しさでは、到底太刀打ちできないものでしょうね。
 カウンセリングでも、最近はセルフ・コンパッションといった言葉が注目されており、これは「自分を思いやり、受け入れる状態」を指します。それに加えて、本当に有益なものは何かをしっかりと見極め、自らの弱さを認めつつ、それでも目指す方向に向かおうとする厳しさも必要となるのでしょうね。

 心理療法でも日常の問題解決、という部分のみではそこまで深められることはないが、本当に「真実の対話」が生じるところで、そして自らを深めて移行する過程では、その片鱗を感じることもある気がする。

『キリストにならいて』トマス・ア・ケンビス

 上の本を借りるときに、検索でもう一つ引っかかったもの、これも面白そうで手に取ってみました。さらっと斜め読みしただけですが、一つ一つの言葉をかみしめてみると、本当に深い味がしそうな本です。

 キリスト者からすると、私のような読み方は許されざるものかもしれませんが…。すみません。

『禅仏教とキリスト教神秘主義』門脇佳吉著

 この勢いで、『霊操』の著者である門脇氏の著作も手に取ってみました。
 門脇氏は、クリスチャンとして霊操も取組まで、その後には臨済禅の大森曹玄老師に師事し、禅を極められた方のようで、大学でも教授まで務められ、それらの体験実践を言葉にしてくれています。

 内容はとても深いものでしたので(というまとめ方か)とても触れられませんが、わかりやすい説明で禅と霊操における構造と機能の類似点と相違点を整理してくれており、大変に学びになりました。

 宗教間での対話が進むことも、先日のハラリ氏の言とも重なりますが、素晴らしいことです。近年は、宗教に対する距離感も変化してきており、特に日本では宗教的感覚を特定の宗教が担うことも少なくなってきています。
 心理療法で、問題の解決に努める、ということに留まらず、しっかりと自分と向き合う、ということにエネルギーを注ぐことに関心を持たれる人たちが一定数いることも、その一端を担っていると考えてもよいのでしょう。

アカデミック、学術的である、ということとは

 実は、これらの本を読んでいて、特に『キリストにならいて』を読みながら考えていたことは、研究、アカデミック、学術的であるということはどういうことなのだろうか、ということです。

 研究は、個人的な感想とは異なります。
 科学的であろうとするということは、統計的に一定の優位な確率でその概念が言いうる、ということでもあるでしょうし、文学的な研究でも、やはり個人的な感想ではなく、様々な思想や背景を踏まえ、それに対する一つの新しい知見を探していく、という過程でもあるでしょう。

 研究者たちの中では、「私が発見する」という競争もあるのかもしれません。今の新型コロナウィルスのワクチン開発などは、その一分野でしょう。

 ただ、成果は個人の意見ではないもののはずです。その成果を求めるのは自我やその衝動・欲求かもしれませんが、その結論は自我を超え、かつ他の人が発見していない一つの普遍性に辿り着き、それを言葉を使って説明できたかどうか、ということでもあるのでしょう。

 その様に考えていくと、本当に向き合った研究は宗教と似ている部分も出てくるのでしょう。これは、何事でもとことん突き詰めて取り組めば、同様なことにつながる気もします。
 ただ、それに向かう意思はそれほど純粋ではないものも多くあるでしょうから、本来の宗教ほどには透明ではないものも多いでしょうけれども。

 自らの心を見つめる、絶えず反省し、相互理解ができる対話を紡ぐ、そんな歩みを示すのも、心理療法が取り組みを進めようとする世界だと思います。

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右の画像、どこにあるか見つけられるでしょうか(笑)

下のボタンをクリックして頂いたホームページの中にあるのですが、見つけられたらすごい!

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