トラウマへのアプローチ
この10年で、トラウマへのアプローチは随分と変化しました。特に、脳神経の発展から、先日書いたポリヴェーガル理論などもそれを牽引しています。
今回は、そんなアプローチの中で、身体感覚について少し書いてみたいと思います。そして明日以降、いくつかの身体感覚について、1つずつ取り上げてみます。
私自身、長く認知行動療法を柱としながら、折衷的に様々なアプローチを行ってきました。認知行動療法ではアセスメント、つまり状況を整理してみよう、という枠組みとして、体験した「状況」、その状況で生じた「感情」、その感情を導く「思考」とその時の反応としての「行動」、そしてその時の「身体感覚」などといった形で整理する方法をもっています。
例えば、甲子園で応援しているチームが負けたのをテレビで見ていて(状況)、苛立ちや悲しみといった感情を感じ、その感情のきっかけともなる「あの時のミスが悪いんだ」「風が相手を味方した」などといった思考にも気づきながら、手を握り締めてその事実を家族と話し(行動)、身体はこわばりと力が抜けた感覚を行き来している(身体感覚)といったことです。
実はかつての私は、この最後の身体感覚についてアセスメントとして書きだすことについて、あまり重視していませんでした。認知行動療法の統一的プロトコル(UP)でも感情と身体感覚を一緒にしていたり、日本人はこの感覚と感情が近いから、という先生方の話を聞いていたりした、という言い訳もしたくなり、少し心臓がどきどきしていますが…(笑)。
私個人としては、この身体感覚を無視していませんでしたし、実感としては大切にしてきていましたが、改めてそれが理論的に大切なのだということを目の前に示された感じがしています。そして、実は認知行動療法の深まりもこれからなのではないか、などといった思いもでてきています。
この身体感覚を丁寧にたどることについて、そしてそれを感情や思考と区別して体験できるようにすることの大切さが、最近のトラウマ治療で説かれています。マインドフルネスもその流れに乗っていますから、私としては違和感がないのですが、認知行動療法に理論的再構築して取り入れているところです。
明日以降のこのブログで、幾つかの身体感覚を取り上げていきたいと思います。身体感覚に対して、評価せず、レッテルを貼らず、過敏になり過ぎず、麻痺したり曖昧にせず、そのままにどういうものか、ということを少し考えてみたいと思います。くどいところもあるかもしれませんが、よろしければ読んでいただき、コメントもいただければと思います。
コメントについては、過去に沢山のいたずらと思われるものが来ていましたので、承認してからアップすることになりますが、いろんな感じ方、見方を整理してまた皆さんとの検討の土台となるようにアップできればと思います。