感情は、感じるものですね。選んで体験することはできません。心理療法では、いろんなものの見方を自分の身体の中において、それを感じてみる、なんてこともしますが、その時には選んで体験出来ていますね。
例えば、「私はダメな人間だ」という言葉を自分の心のつぶやきのように自分の中におくとき、嫌な気持ちがするのと感じます。一方、「私にもいいところがある」という言葉(つまり思考)を自分の中におくとき、少し楽になるような感じがするものです。
そのように、いろいろな感情を体験する練習はできますし、その中で良いものに馴染ませることもできるものの、日常の中で自らの内からわいてくる感情を自分の思い通りにすることは難しいものです。
今日は、さみしさについて書いてみます。
さみしさを感じるのは、どんなときか。人と繋がっている感じが弱まっているときではないでしょうか。人と遠く離れていても、繋がっている感じを持てているときには、さみしく感じないものです。一方、すぐ隣に人がいたとしても、繋がっている感じを持てないときにはさみしさをひしひしと感じるでしょう。さみしさ、それは人と繋がっていたい、という欲求と繋がった感情なのです。「愛着」という言葉を目にすることが増えました。虐待などの問題やトラウマについても、この愛着との関係で論じられるようになってきました。
愛着の話は少し横に置きますが、人や何かと繋がることで、人は安定します。例えばゲームで言えば主人公のエネルギーが0になってしまうとゲームオーバーになってしまう場合、そのエネルギーが減ってくることに焦り、なんとか補給しようとするでしょう。それと同じで、つながりが感じられなくなってきて不安定になってきた時、つまり繋がりエネルギーが減ってきたときにこのさみしさを感じるのでしょう。
さみしさを感じるのは、自分の安定が少し乱れているよ、といったこともあるでしょう。いつも、隣に自分のことを気にかけてくれる人が座ってくれていて、その人は全エネルギーを自分に向けてくれている、なんてことはありません。ただ、そのさみしさを丁寧に感じて、「自分がそうなっているんだな」と観察してあげて、身体的な感覚、感情、そして思考を整理したいものです。そしてそんな自分のことを、「ちゃんと感情が機能して、自分のことを教えてくれているね」ということとして捉え、適切な形で満たされる時を待ったり、満たすための努力をしたりしたいものですね。
さみしさは、怒り程には爆発的なエネルギーではありませんが、うっすらとしているようでも絶えず人に影響しています。かなり強くこの感情に影響されている、という人も少なくありません。
昔、仲間の先生たちとさみしさについて話し合ったことを思い出します。さみしさには2種類の感じ方がある。深い淵を眺めて引きこまれるような感じがするどうしようもないさみしさと、大人のさみしさだ。大人のさみしさのような感じ方を出来るように支援しないといけない、と。大人のさみしさ、これは上に書いたことでもあります。それが「どうしようもない」「満たされることはない」といった思考と繋げてしまい、満たされなかった時の感覚と繋がっていくとき、どうしようもなく感じてしまうさみしさになっていくのでしょう。
さみしさと上手くつき合いたいものです。